つまみぐい

つい、手がのびた。

FP個別相談に行った話

下書きにしたまま放置してしまっていた…


◆二度目のFP個別相談

この個別相談は、元々職場のお付き合いで参加した「マイナス金利時代に賢くお金を貯めるには」といった主旨のセミナーに、特典として用意されたもの。
セミナーの講師をされていたFPの方が、本来1万以上する個別相談を一案件無料で受けてくれるという太っ腹な内容だった。
丁度子どもの学資保険や、「保険何にも入ってないよ~」と言ってのける世帯主の医療保険、自分も含めての生命保険の検討をしたいと思っていた。
渡りに舟とはこのことか…。

主な相談内容としては、保険の見直しに際したライフプラン作成。
「一案件」と認められてほっとした。

知識面以外で行って良かったなと思うこと

①不安要素やプレッシャーを主人と共有できた。
日に日に大きくなるお腹を抱えていると、とにかく守るべきものが増えることに対して不安が大きい。
結婚して「支え合う」ということは、相手を自分が「支える」ことができなければ成り立たない。
それは「自分以外の相手のことに責任を持つ」こと。
怖くない?
お金に関することも大きな不安要素の一つだった。
漠然としたそれを具合的な懸念事項として2人で検討できたこと、できていることで安心感が持てた。

②今から考えていけば十分備えられると後押ししてもらえて安心できた。
これもある意味では、責任感におしつぶされないよう、責任を分けたとも言えるかもしれない。
プロが言っているから大丈夫。単純か。

③中々突っ込みづらかった互いの給料や生活費の話が自然とできた。
新婚でまだ子どもがいない夫婦が多いせいか、周りにも互いの収支を把握してない人が多い。
私達もそのケースで、結婚して一年別居婚なので尚更だ。
出産後、里帰りから帰ってきた時からようやく同一家計のスタート。
精神的にも大変だろうし、今の間にこのハードルを超えておけてよかった。

知識面のこと

①保険料控除の3枠(生命保険、医療保険個人年金)をうまく使って節税できる。
銀行に預金しながら掛捨保険の支払いを続けるより、
長期的に必要になるお金を確保(プランによっては増やす)+節税のほうがお得になることが多い。

②掛捨の医療保険等は団体保険のお得さに勝るものはない。
女性の医療保険は婦人病のリスクが高まる30~40代の間に使うことが多い(ちなみに男性は60代まで使わない人が多いらしい)ので、
私の団体保険(女性疾病特約付)は40歳くらいまでそのまま。
それ以外は積立で考える。

③教育費は積立の生命保険をメインに検討。
学資保険に比べて掛け方と受け取り条件の自由度が高い。

④マイナス金利になって以降、お得な保険商品は次々になくなっていっている。
引っ越して住所が確定したらすぐ申し込みたいところ…。

生命保険、医療保険、学資保険がわりの生命保険、個人年金、それぞれのオススメプランの提示をうけてこの日は終わり。
これを受けて、先週はほけんの窓口へセカンドオピニオンを求めにいき、
加入する保険のあたりをつけてきた。
掛金、年数に加えて、年払いか月払いか、カード使えるか使えないかも大事なポイントになった。

休日にこれほど頭を使うとは。

全部はんぶんこには出来ないだろうけど

28週、妊娠後期である8ヶ月目に突入した。
先週末は主人が久々に大阪の家へ帰ってきた。
結婚式、GWの帰省、法事、仕事等々で、かれこれ約1ヶ月ぶりのことだった。

夏以降の家探し、FP個別相談での保険や貯蓄相談と、
この先に向けてあれこれ動けたのでとても良い週末だったなぁと思う。

妊娠がわかって以降は胸の奥底にずっと不安があって、それはきっとこの先も拭い去ることができない。
ただただ澱んでいて、たまにゆらりと波打って、ぞわぞわと身体を上ってくる。
決してその澱みを浄化したわけではなく、ただすくいあげて器にいれてやった、という感じ。
それだけでこんなにも不快感は和らぐ。

きっと自分ひとりで掬っていたのではここまでの安堵は無かったと思う。
ふたりで、自分達の家庭のことを考えられたことが、良かったんじゃないか。
大きくなるお腹の中、今日もびよびよ動いていたこの子を守るのは、私ひとりじゃないんだと。

何というか、やっぱりプレッシャーなのだ。
守りたい、というより守らねばならない、守れなければいけないんだ、と。
だから、ひとりじゃないんだと実感できる時間はどれだけあっても嬉しいものだ。

多分主人は主人で私とはまた違うプレッシャーがあるに違いない。
その澱みに気付いた時は、一緒に掬って、入れ物にいれようと思う。

FP個別相談の話を書こうと思ったのに、気持ち面の話になってしまった。
また後日、忘れないうちに。

波打つ腹を見つめる生活

久々に何の予定もない、一人(と900g)の週末。
週の頭は福井での葬儀でばたばたとしていて、大阪に戻れば溜まった仕事と研修、資料作成の締め切りでクタクタだった。
金曜の夜は適当に夕飯を食べてもう限界!と22時就寝し、今日は7時半にぱっちり目が覚めた。

ここのところ眠りが浅く夜中何度も目が覚めて、明け方はこむら返り、一旦6時半には目が覚める(二度寝する)…というのがお決まりだったのだけど、本当に深く寝たなぁという感覚になった。

二度寝するか迷ったものの、起きて朝食を作る。
食べている途中から胎動が激しく、食後ソファでくつろいでいると右に左に波打つ腹。
思わず笑って、話しかけた。
テンション高いね、どんな動きをしてるのかな?

平日もきっと同じように動いているんだろうけど、やはり意識が仕事に向いているので「動いてる動いてる」くらいで時間が過ぎてしまう。
たまに尻方向を蹴られたり激しく動いたりすると「うっ」とはなるけれど、お腹をさすったりポンポン叩いて宥める程度だ。

今日はたくさん見つめて、お腹の子に意識を向けて、話しかけた気がする。
こんな毎日でも、悪くないなと思った。

…ただ、朝ご飯食べて片付け、くつろいでるうちに眠気がきてうたた寝すればすぐ昼ご飯の時間になり、また眠気…お昼寝から目覚めたら夕ご飯。
洗濯したりお風呂入ったり、スーパーに行ったりはしたとはいえ。
こんな毎日だと出不精な私は確実に体重増加を加速させるに違いない。

明日は出かけよう、絶対に。

言葉にできない澱みがある

5月14日、父方の祖母が亡くなった。
父からその知らせを受けたのは友達の結婚披露宴真っ只中。
慌てて二次会を欠席させてもらった後に、通夜は月曜、葬儀が火曜に決まったと連絡を受ける。
その時からずっと、言葉に出来ない澱みが胸の奥底にあるのを感じている。

記憶している一番古い祖母の姿は、下着や化粧品を販売の仕事をしゃきしゃきとこなしていた。
「ここにサロン長って書いてあるやろ、こればあちゃん。今月これだけ稼いだんやよ~。」と給与明細らしきものを見せてもらったことがある。

祖父母は伯父一家と同居しており、物心ついた時には家事の殆どを既に伯母が引き受けていたが、それでもたまに祖母の作ったおかずが食卓に並んでいることもあった。
「こればあちゃんが作ったでの、美味しいか?」
ばあちゃんの里芋の煮っ転がしは水を使うところ全て酒を使っていると言っていた。
…これは嘘かもしれない。でも、少し濃いめだった。

「お風呂入れてあるで。はよ入りねの」
「布団敷いてあるで。」
毎年盆暮正月に泊まりに行くと、着くや否やそう言われるのがお決まりだった。
「今年のお盆はいつ来るんや?」
「正月はいつから来るんや?」
そう電話をかけてくるのも、お決まりだった。
返事の電話をかけるのは夕方早めの時間。
「ばあちゃんおる?」
「あーもう酒飲んでもうてるわ」
…そうでなければ、お酒を飲んで記憶が曖昧になってしまって、翌日また同じ電話がかかってきたものだった。
「昨日電話くれたってか?ほやったけの?」

構いたがりで、自己PR多め。
だけど間違いなく愛情深い人で、正直甘やかしてもらった記憶しかない。

高校生の時だったか、腸閉塞か何かで緊急入院したばあちゃんはオストメイトになった。
昔からよくお酒を呑む人ではあったけど、お酒を呑んで記憶が曖昧になったり転んだりすることが増えて酔っている時間が長くなった(らしい)。
同居する伯父一家の口ぶりも、しょうがない人だなぁというため息から、これはおかしいという戸惑いに変わっていったように思う。

老人鬱か、認知症か。
はっきりしないまま祖母の奇行は増えたようで、同居する伯父一家、祖父の気苦労は、離れて暮らす私には本当に計り知れない。
ある年の年末に帰省すると、急に髪が真っ白になっていた。
表情も別人のようになって、鬱陶しがられるほどPRを繰り返していた口数は激減していた。
従姉兄達とカードゲームをした時に罰ゲームとして使った百味ビーンズの残りを黙々と食べていたから、多分味覚もあまりなかったのかもしれない。
(相当不味い味が残っていたはずなのに、次の日出かけて帰ってきたら空になっていた)

昨年の夏は、初めて主人と福井に帰省した。
その頃にははっきり認知症であると診断され、デイサービス(祖母は学校と言っていた)に通っていた。
最近は誰が誰か分からず一言も喋らないことも多いと聞いていたので、一緒に墓参りに出かけた時に恐る恐る話しかけた。
「ばあちゃん、私やよ。これ旦那さん、わかる?」
「…わかる、わかる。何もないとこやけど、ゆっくりしてっての」
ばあちゃんは笑っていた。

今年の年始の帰省は、兄嫁と主人、そしてばあちゃんの初曾孫にあたる生後3ヶ月の甥っ子が一緒だった。
「ばあちゃん、曾孫やよ。ばあちゃん、おばば(大ばば、曾祖母の意味)になったんやよ。」
ばあちゃんは驚きと喜びで目をまん丸にしていた。
「私ひいばあちゃんか。ひいばあちゃんなんや。」
何度も何度も繰り返して、何度も甥っ子を抱っこしたがった。
その日、ばあちゃんに話しかけられたのがちゃんとした会話としては最後だったかもしれない。
「大きくなったの、もうお母さんの背抜かしたんでないか」
「中学生の頃とっくに抜かしたよ、ばあちゃん」
「ほやったけの?」

認知症はどんどん進んでいたけど身体は悪くなかったから、無事お腹の子が産まれたら秋口には一度見せに行けるかな、と思っていた。
抱っこしたら、ひいばあちゃんだ、ひいばあちゃんだ、と喜ぶかな。
また目をまん丸にするかもしれない。
背が伸びただけじゃなく、もう母親にもなったのかと。

食べていたものを喉に詰まらせて、窒息だったそうだ。
年明け頃要介護認定がとれて、伯父一家としても家の中だけで抱え込む以外の先行きが少しずつ見えてきていたのではないだろうか。
それだけに、何か今までの葬儀にはなかった慌ただしさと疲労感、そして非現実感がある。

私にとって盆暮正月の福井への帰省は毎年当然にあったもので、大好きな時間だ。
そこにはばあちゃんがいた。
どんどん変わってはいっても、愛情は深くてどこか憎めない、ばあちゃんがいた。

次に行っても、もういないのか。
まだ、信じられない。
見守っていてほしいとも、まだ思えない。
ばあちゃん、何だかんだと、私はばあちゃんが大好きだと、
たくさん可愛がってくれてありがとう、と、
言わなきゃ、でも声が出ない。

明日はまた仕事だ。一人暮らしをこなしながら、体調に気をつけながら、日常に戻っていくはずだ。
戻っていかなきゃいけない。

それなのに、何だかまだもう少し、寝付けそうにない。

どうしようもなく一人だ

10日間のGWが終わった。

昨日は流石に疲れてしまって、何とか夕飯、入浴、洗濯をこなしたものの食器を洗う気になれず寝落ちした。
連休中ほぼなくなっていたこむら返りと便秘が復活したせいで、目覚めも良くなかった。

今朝のこむら返りは割と長引く、ひどい部類のものだった。
夜中に叫んでしまう程痛かった。

咳をしてもひとり

そんな句を詠んだ人がいたっけな、と思い出す。
確か中学校の教科書かなにかに載っていて、こんなの俳句でもなんでもないがいね!と友達と笑っていた気がする。

今は笑えない、あぁそうだなぁと思う。
連休中はほぼ誰かといた所為なのか、自分の状況を客観視したからなのか、昨晩 ふと 孤独だなぁと思ってしまった。
ひとりになりたくてもなれない身体なのに、おかしいな、とも思った。

でも周りに人がいても孤独感を抱くことはあるわけだから、
物理的なものではないのかもしれない。

主人と次に会うのが約3週間後だ、とふと思い出して寂しくなった。
健診はあっという間に来週頭、増えすぎだと思う体重ももとより、懸念していた胎盤位置について何らかの診断があるのでは…と不安になった。
仕事の引き継ぎもまだまだ終わっておらず、やることは山積みで、それなのに治りかけだったはずの風邪がちょっと悪化して体調が優れない。

今、自分でどうすることもできないことで急に視界が塞がれて、怖くなっただけだ。多分。
生まれたての赤ちゃんも、こんな気持ちになるのかもしれない。

今日もさっさと帰って、出来るだけ寝よう。
咳をしてもひとりだけど、何をしてても2人分だ。

蛙の声いとあはれなり

今年のGWは10連休をいただいていて、そのほとんどを里帰りで過ごしている。
主人の地元である愛知に3泊(主人は6泊?)、私の地元である石川県に5泊(主人は4泊)。
今までになく長い帰省だ。

この時期の帰省は丁度田植えシーズンとかさなっていて、周辺に田んぼが多い実家にいると冬眠から目覚めた蛙が夜一斉に鳴き始める。
大通りから少し入ったところにある実家の周りは夜になると静かで、特にテレビの音もない風呂場や自室にいるとその大合唱が私には何とも心地良い。
多分、雑音にしかならない人もいるとは思う。

子どもの頃、何故だったか祖父が家に泊まりにきたことがあった。
滅多にないことだったのと、夜和室に寝転がった祖父が蛙の声に「あぁ、いいなぁ」と呟いたのを覚えている。
私の記憶する限りでは祖父の家付近でこんな蛙の大合唱を聞いたことはないのだけれど、祖父の記憶のどこかにはこの声を懐かしく、心地良く感じさせる記憶が眠っていたのかもしれない。

ちなみに主人の実家の周りでも蛙の声をよく聞いた。
ブォン、ブォン、とライトセーバーを振り回したような切れ切れの音が、それだった。
牛蛙?蝦蟇蛙?
池の畔に鴨川よろしく等間隔に並んでいた彼らは亀と見間違うほどの大きさだった。
驚く私に、主人も姑も、あぁいっぱいいるでしょ?と笑いかえすだけだった。

不運を嘆くより感謝するべきだった

恐らく前置胎盤疑いの妊婦になって5日が経った。

19w5dの健診(前回)
胎盤が下のほうにあるから、内子宮口にかぶっている。
でもこれから子宮が大きくなるにつれ位置も上がっていくことが多いから様子見。」

23w5dの健診(今回)
「エコーでは少し上に上がってきたように見えたけど、経膣プロープではまだ接してしまってる。」

いずれも「前置胎盤」という単語もなく、安静指示もなく、
出血に気をつけて無理をしないように、とのことだった。
ただ先生の口ぶりと、自分自身コウノドリを読んでいる中で「胎盤が下の方にある状態は良くない」というレベルの知識はあったので、帰ってから検索してみる。
(妊娠してからすっかり検索魔)

出るわ出るわ、恐ろしい体験談……。

自覚症状はほとんどない。
妊娠後期(8ヶ月、28w)に入ると出産に向けて子宮収縮しやすくなる(=お腹が張りやすくなる)上、子宮口が柔らかく開きやすくなってくるため、前置胎盤の場合は子宮口とそれに接した胎盤の間にズレが出やすく出血しやすくなる。
はじめは「警告出血」と呼ばれる小量の出血で済むこともあるが、やがて1~2リットルの大量出血を起こす。

ただ、前置胎盤の正式な診断は9ヶ月に入る頃、31w頃までにされる。
(妊娠初期は多くが前置胎盤状態であり、妊娠中期に子宮がどんどん大きくなるにつれて胎盤の位置も上がっていくケースが多い)
子宮口へのかかり具合によって、全前置胎盤部分前置胎盤、辺縁前置胎盤に分かれ、後者になるにつれ諸リスクは軽くなる。

診断後、里帰り希望の場合は地元で施設の整っている&病院を探して、なるべく早く管理入院しシャワーやトイレ以外はほぼ寝たきりの安静状態。
多くは帝王切開での出産になる。
子宮口付近は胎盤癒着を起こしやすいので出産時胎盤が上手く剥がれなければ子宮全摘出になることもある。

9ヶ月でも胎盤の位置があがってくれば自然分娩が可能な場合もあるが、どちらにしても大量出血になることが多い。
そのため輸血が必要になるが、感染リスクを減らすため自己血を貯めておく場合が多い。
出血多量で母体の命に関わる場合もある。


ざっと分かっただけでもこれだけの情報が飛び込んできて、正直かなり動揺した。
不安だ、怖い、でも出来ることが何もない。

無理しない、って何?
重いもの持たないとか激しい運動しないとか、普通の妊婦生活で気をつけることをちょっと慎重に考えるくらいでいいの?
仕事はどうしよう?
GWの帰省は?

何が一番って、何もしないことだ。
仕事を休んで、長距離移動もしないで、家で横になっていることだ。

でも現実的には難しい。
やらざるを得ない状況ならまだしも、私はまだ「疑い」とすら診断はされていない。
その状態で「かもしれない」を探して怯えながら閉じこもっていることの方が、きっとこの子には良くない。
8ヶ月からが正念場なのであれば、尚更今、色々とやっておかなくちゃいけない。
義両親に会い、なかなか会えない友達に会い、たくさんこの子を愛して欲しい。
私も、何が何でも自分とこの子を守るための勇気というか、しがみつく気力が欲しい。

リスクと実現度合いのバランスを見ながら判断していくしかない。
頭ではそう答えが出ているのに、気付けばネットで検索してはしかめ面している。

こういう時に、一人暮らしは嫌だ。
前置胎盤、帝王切開、全妊娠での確率は高くないのに。
それでも自分の身に起こればそれが全てだ。

生産性のないことだなぁと思いながら、不運を嘆いた。

でも、昨日また検索魔化していてもう一つ分かったことがあった。
胎盤の位置=受精卵の着床位置」。
通常着床する位置の子宮壁に傷があったり着床しづらかったりすると、何とか「着床できる場所」に着床するんだと。
前置胎盤の場合は、それが子宮口付近だったんだと。

何だか一気に、いじらしく感じられた。
そうか、私のお腹にしがみつこうとしたら、そこしかなかったか。
それでも、うちを選んでくれたのか。

名古屋に着いた。
近いなぁ。
昨日飲んだevianのせいかお腹の調子良くないけど、お子は元気に動いている。
もうすぐ主人の実家。
たくさんの愛をもらおうね、とお腹を撫でる。